縄文時代の農耕

『館報12』にのせる論文をようやく書き上げました。 タイトルは「縄文焼畑農耕論」。その内容を簡単に記します。

1.それは縄文前期にはじまった
縄文時代に農耕があったのではないかということは早くから論じられてきたが、いや狩猟採集だったという意見がおおかたのコンセンサスのようである。しかし、最近の発掘技術と分析精度の発達はめざましく、とくに自然遺物に関するデータが数多く集まってきた。なかでも、栽培植物の発見例が増えて、農耕の始まりを真剣に考える必要を感じる。

画像とくに注目すべきはヒエ。北海道・東日本で早期末から前期にかけて発見の報告が出始め、中期になると無視できないほどに多くなる。ほかにも、ソ バ、エゴマ、ダイズ、アブラナ科などの存在も報告されているので、一種の「作物複合」が形成されはじめていたことがわかる。したがって、もし、縄文前期に農耕がはじめられたとすれば、農耕による食の安定が人口増加をもたらし、遺跡の大型化、数の増加、物質文化の多様化という社会的現象がよ く説明できるのである。

2.それは焼畑だった
縄文農耕の施設(田畑、畝、畦)についての明確な考古学的な証拠はまだ発見されていない。そこで、民族学データを援用することにした。例として狩猟採集民であるオーストラリア先住民とカリフォルニア先住民をとりあげ、旧石器時代的、新石器時代的な経済発展段階でとらえることを試みた。彼らは「火を巧妙に利用して環境をコントロール」しており、それが焼畑につながる可能性を考えたのである。

3.どんな社会だったか?
最後に、歴史・民俗学データを使い、焼畑社会のあり方を考えた。取り上げたのは飛騨地方で、ここには明治初期にかかれた『斐太後風土記』があり、そこに詳細な産物の量が記載されていることと、1960年代までヒエを主体とする雑穀栽培型の焼畑が盛んにおこなわれていたからである。

そこで現在の白川郷で当時、焼畑をおこなっていたムラを取りだし、ムラの分布、人口と戸数、および食と栄養の分析をおこなった。その結果これらのムラ は30人を基礎単位とする父系バンドからなり、それが複合した大バンドで形成されることがあったことがわかった。

また、食に関しては主食としてい たヒエと雑穀を補うために、野生食を盛んに利用しており、その結果栄養的にはコメに主体をうつしていた平野部のむらと比べむしろ優れていたことがわかった。飛騨地方では自然と生きる縄文時代の生活要素が色濃く残っていたことを示していると言えるだろう。

『館報12』はまもなく出版されます(無償配布)。ご希望の方は、すいはくまでお問い合わせください。TEL:06-6338-5500(代)
(カンチョー)

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この記事へのコメント

2011年10月04日 00:10
ノーコーがあった可能性がノーコーであると…。いやサイシュー的にはサイシューだっただろうと…