わたしと万博(10)…梅棹忠夫さんに聞く

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梅棹さんが70年万博を成功に導いた一人であることはよく知られています。どうしてそうなったのかを聞いてみたくて、万博公園にあるミンパクの梅棹資料室を訪れました。今年は梅棹さんが『文明の生態史観』がでて50年、それに関係する文章の口述筆記を終えたところ、いいタイミングでした。

1963年、「オリンピックの次は万博だ、それは大阪で」という声が澎湃としてあがってきた。「情報産業論」を書いた関係から『放送朝日』の五十嵐道子さんが世話役になって、小松左京、加藤秀俊さんらと、アメリカ大陸へ視察旅行に行った。
ニューヨーク(世界博1964)、モントリオール(万博1967)、メキシコシティ(オリンピック1968。民族博物館は後のミンパクづくりの参考になった)とハワイ(なんにもしないで楽しんだ)。

ニューヨークで「たいしたことない、もっといいものができる」と確信した。研究会を開いて具体像をつくあげていった。志を同じうする人が自然に集まってきて、その輪は財界や政界まで広がっていった。時代に勢いがあった。
今でも思い出すのは万博宣言文をかいたこと。「進歩と調和」のキーワードは、誰かがそこからぬきだしたものだ。開会式での首相、石坂万博会長らの演説も。北白川の自宅の板の間に這いつくばって書いたのをおぼえている。

-あの万博の意味は?
日本人がそれまでの伝統のアカを一気に洗い落としてしまったことだろう。これからの社会にあらわれる装置や技術-テレビ、道路、車、外国とのつきあい方、ニュータウンの使い方。それを実際に目の当たりに見て、理解したのだとおもう。

-それは誤解ではなかったのですか
いや、市民は「わかった」のだ。そして今日の情報社会へとステップの切り替えが自然にできた。
(なんとも凄みのある要約ですねぇ)
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梅棹資料室の本棚には『知的生産の技術』の京大式ファイルにいれた、万博関係資料がたくさんありました。(これは、パンフやメモ、議事録などの雑資料でアーカイブとなるもので大英博物館を始め欧米では大切に管理され、活用されているものです。ミンパクの図書館はまだあつかいきれないので、本の形になったものだけを収めているようです。

これをうまく展示する方法はないのだろうかと考えました。また参ります、この秋の「大阪万博と吹田展」には、ぜひいらしてお話を聞かせてください」といって帰ってきました。

(聞き書き:カンチョー)

写真上:民博館長に就任した頃の梅棹さん
写真下:梅棹資料室

この記事へのコメント

okkun
2009年05月03日 01:45
梅棹さんは企画側におられたわけですが、ほかの方の「わたしと万博」を読んでも思うのは、決して「見てるだけ~」ではなかったこと。カレーライスを売ってたにしろゾウを見に行ったにしろ、オッカナビックリ救護室に詰めてたにしろ親戚のガイド役をしたにしろ、なにかしら「参加している」。少なくとも地元では、万博は巨大な参加型イベントだったんだなと感じました。だから成功したし、いまだに「話し始めると止まらなくなる」のは、そのせいじゃないか?と思います。その装置として、真ん中に「お祭り広場」をもってきたんですよね。お祭りなんだから誰が輪の中に入ってもいいと。そのバンパクの展示会を市民参加型で企画するのは、まことに正しいことのように思えます。

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